製薬企業が問うべきは「アジャイル導入の是非」ではない
製薬企業の中には、性質のまったく異なる4種類の環境が同時に存在しています。だから問うべきは「アジャイルを導入するかどうか」ではなく、「何のために」「どこで、どの程度」「どんな形で」取り入れるかです。
これまで何度となく、製薬企業のリーダーの方から同じ質問を受けてきました。「うちもアジャイルを導入すべきでしょうか?」
私自身「アジャイルコーチ」と名乗ることが多く、アジャイルは「導入する」「実装する」ものとして紹介されがちです。そう聞きたくなるのは当然です。
ただ、この問いには前提に落とし穴があります。アジャイルを、CRMや特定のガバナンスプロセスのように「あるか、ないか」の一つのものとして扱っているからです。期待外れに終わった変革の多くは、この捉え方に原因があると感じています。ひとつは、「自分たちの仕事や課題には合わない」と、現場が最初から拒否反応を示すパターン。もうひとつは、「スクラムをやりなさい」(あるいはOKR、QBR、SAFeなど)と指示され、言われた通りにやってはみたものの、期待した効果がほとんど得られないパターンです。
まず定義を確認しましょう。アジリティとは変化を競争優位に変える力です。ビジネスアジリティとは、その力を事業全体に適用したものです。Windowsのアップデートのように一斉に配布できるものではありません。機能ごと、部門ごとに育てていく組織の能力であり、不確実性が高く、変化の激しい領域でこそ効果を発揮します。そう考えると、より実践的な問いが見えてきます。自社のどこに不確実性や変化があるのか。それはどの程度なのか。そして、その不確実性や変化はどこから来ているのか。
4種類の環境と、4種類のリーダーシップ
こうした対話の手がかりとして役立つのが、デイブ・スノーデン(Dave Snowden)のCynefin(クネビン)フレームワークです。状況を「既知で安定している部分」と「未知で流動的な部分」のどちらが大きいかで分類するもので、ポイントは、状況の種類によって求められるリーダーシップがまったく違うという点にあります。
明白(Clear)の領域
- 環境の特徴: 因果関係が明らかで、次に何が起きるかはほぼ確実に予測できる。
- リーダーの役割: 標準手順(SOP)やベストプラクティスを適用し、再現性のある成功パターンをつくる。指示命令型でも問題ない。進め方は「把握・分類・対応」。
煩雑(Complicated)の領域
- 環境の特徴: 因果関係は、分析や適切な専門家の知見によって突き止められる。良い解決策が複数存在することもある。
- リーダーの役割: 専門家の知見で状況を把握し、指標で管理する。ある程度の指示命令型も機能する。進め方は「把握・分析・対応」。
複雑(Complex)の領域
- 環境の特徴: 因果関係が絡み合っており、結果は相互作用の中から生まれる。
- リーダーの役割: 明確な枠を決め、その中で人々が自律的に動けるようにする。対話を促し、アイデアを出し、「探索・把握・対応」を繰り返す。探索とは、たとえば失敗しても致命傷にならない小さな実験を行うことです。
混沌(Chaotic)の領域
- 環境の特徴: 有効な制約が存在せず、打ち手と結果の関係が見えない。
- リーダーの役割: すぐに行動して秩序を取り戻す。今すぐ手をつけられる仕事を選び、優先順位をつける。進め方は「行動・把握・対応」。
なお、Cynefinには、自分がどの領域にいるのかわからない状態を表す5つ目の領域「混乱(Confusion)」もあります。「この仕事はどの領域か」を見極めること自体が、リーダーの最初の仕事です。
短いサイクル、部門横断のチーム、頻繁な振り返りと軌道修正(スクラムでいう「検査と適応」)といったアジャイルな働き方は、もともと「複雑」な領域のために生まれたものです。組織として「探索・把握・対応」を回すための方法だと言えます。「明白」な領域では、多くの場合オーバーヘッドが増えるだけです。「煩雑」な領域では、役に立つ要素もあれば、そうでない要素もあります。
一つの会社が、すべての領域に同時にまたがっている
製薬企業は、このうち一つの領域だけで仕事をしているわけではありません。一つの会社が、4つの領域すべてで同時並行に仕事をしています。

アジャイルについて何かを決める前に、それぞれの仕事がこの図のどこにあるかを確かめてみてください。たとえば副作用症例の処理(ケースプロセッシング)は、スクラムを取り入れても大きくは良くならないでしょう。必要なのは標準手順の徹底とコンプライアンスです。一方、標準治療が確立していない治療領域での新製品上市は違います。医師、患者さん、そして採用を決める医療機関が何に反応するのか、まだ誰にもわかりません。期初に立てた年間計画が、3か月後には前提から崩れていることも珍しくありません。短いサイクルと部門横断のチームが力を発揮するのは、こういう場面です。
実際には、さらに二つのことが話を難しくします。一つ目は、領域そのものが移り変わることです。安定していた製品も、後発品の参入や薬価改定、長期収載品の選定療養といった変化をきっかけに「複雑」な仕事に変わります。コロナ禍や、供給不安による限定出荷のように、ある日突然「混沌」に陥ることもあります。二つ目は、一つの機能が同時に複数の領域にまたがることです。既存製品のマーケットアクセスは「煩雑」な仕事ですが、新しい治療領域では「複雑」な仕事になります。
日本の製薬業界で一緒に仕事をしてきた優れたリーダーたちは、特定の組織構造ややり方にこだわらず、複雑さこそがチームの組み立て方や率い方を決めるのだということを深く理解していました。
最近支援したある組織は、従来型の営業組織から、MR、MSL、患者支援などのメンバーで構成される部門横断チームへと移行しました。外から見れば、一度きりの組織変更に見えたかもしれません。しかし本当の変化は、その後の2年間に起きました。さまざまな変化や気づきに応じて、組織は何度も形を変え、方向を変えました。チームの組み方、役割と責任、目標設定のプロセス、スプリントの長さ、そして人数も、減ったり、また増えたりしました。冒頭でアジリティを変化を競争優位に変える力と定義したのは、まさにこういうことです。
本当に問うべき3つの問い
ですから、「アジャイルを導入すべきか?」ではなく、次の3つを問うことをおすすめします。
- 何を解決するためのアジャイルか? 課題をビジネスの言葉で言語化してください。「4つの部門を経由するため、上市に関する意思決定に平均6週間かかっている」は、課題を言語化したものです。「もっとアジャイルになりたい」は課題ではありません。課題を言語化できないうちは、解決策を選ぶ段階にはありません。
- どこで、どの程度? どのチームで、どの機能で、どの治療領域で取り組むのか。成功している企業は、課題が最も深刻な場所の少数のチームから始め、そのチームが成果を示せたときにだけ広げていきました。
- どんな形で? 複雑な仕事に取り組む部門横断チームにはスクラム。依頼が次々と流れてくる仕事にはカンバン。多くのチームの方向をそろえるにはOKRや四半期ごとの事業レビュー(QBR)。「アジャイル」と呼ばれない形が正解のこともあります。透明性を高める仕組み、新しい会議のリズム、目標設定のやり方の見直し、ペイシェントジャーニー全体に責任を持つチーム、そしてリーダーシップスタイルの変化などです。
答えが全社で同じになることは、まずありません。むしろ、それが正しい姿です。必要な場所では徹底的にアジャイルに、それ以外の場所ではより厳格に、手順やベストプラクティスに沿って動ける製薬企業は、同じやり方を全社一律に展開する企業よりも強くなります。
次回予告: 製薬企業が実際にどのようにアジリティを取り入れているのか、4つのパターンをご紹介します。多くの大企業が、気づかないうちに複数のパターンを同時に進めている理由についてもお話しします。
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英語版はScrum.orgのブログで公開しています:Stop asking whether your pharma company should "go agile"
出典:Snowden, D. and Boone, M., "A Leader's Framework for Decision Making", Harvard Business Review, 2007/Snowden, D., "Cynefin St David's 2022: Cynefin, Reflections", 2022